広渡寺について
概要
名称 | 浄土宗 間宮山 時鑑院 廣渡寺 じょうどしゅう まみやさん じかんいん こうどじ |
---|---|
所在地 | 〒419-0123 静岡県田方郡函南町間宮193 |
駐車場 | 大型駐車場完備(無料) |
電話 | 055-978-3432 |
住職 | 第26世 林 泰裕 |
沿革
草創
開基 義延上人(ぎえんしょうにん)。石箏阿闍梨(せきそうあじゃり)と称し、下野国(しもつけのくに、今の栃木県)の豪 藤原文信の子にして、父文信の志願に依り、同国薬師寺の願得上人の門弟となる。石箏阿闍梨は、たびたび薬師の霊告を受け、天慶3年(940年)当国に来り、有縁の霊地を求め、一宇を草創して大蓮寺と称す。
鎭守
3世 信楽上人、寺中に鎭守として八幡宮を勧請す。
八幡宮
当国韮山に流された源頼朝は、源家再興を神明仏陀(しんめいぶつだ)に祈る。特に三島明神(三嶋大社)は宗社となる故に、「百日の丑(うし)の刻参り」の願を立つ。
たまたま当寺八幡宮は韮山と三島の中間に位置する社となる故に、当地名を間宮という。頼朝は毎夜間宮八幡宮にて休憩し、丑の刻参りの時刻の調節を計る。源家再興の後、建久3年(1192年)源頼朝公により社殿を造営された。
当寺の山号を間宮山、院号を時鑑院(丑の刻参りの時刻を計った)と称するに至る。
改宗
7世法上上人。法然上人の孫弟子であり、当国中の最初の浄土宗祖である。当時は、開基以後三論宗なりしを、浄土宗に改め今日に至る。
火災廃亡
25世林道上人。永正13年(1516年)暴徒狼籍放火の難に会い、諸堂全て消失し、廃亡すること10年。
中興開山
智当上人。林道上人の弟子智当上人、江戸増上寺より来り諸堂を再建す。享禄元年(1528年)
増上寺貫主より増上寺の院号「広度院」の2字を賜り、間宮山・時鑑院・広渡寺と寺号を改め、智当上人を中興開山(第1世)と称し、以降世代の呼称も改む。
復興
2世意白上人。智当上人の弟子にして、寺門の復興に尽力顕著なり。
興隆
14世転誉上人。天明2年(1782年)本堂(昭和55年改築)を新築し、在住24年間、寺門興隆する。
寺宝
18世龍誉上人。嘉永5年(1852年)上人が寄付した大涅槃画(だいねはんが)軸、寺宝として今日に残る。
※右図:大涅槃画軸(高さ240cm×幅120cm)
毎年2月15日の『涅槃会(ねはんえ)』(お釈迦様のご命日)前後には本堂内に掛けられています。
本堂葺替
22世光誉上人。大正15年(1926年)本堂屋根を瓦に葺き替える。
本堂改築
24世光誉上人。昭和55年(1980年)本堂改築す。
浄土宗 間宮山 時鑑院 廣渡寺
- 多くのお檀家様に支持されているお寺です。
- 東京のお台場を作った大場の久八のお墓があります。
- 大型駐車場完備。通りに面していて入庫もしやすいです。
- 全区画平坦地、舗装済なのでお参りしやすく、雨の日の法要も安心です。
- 大型スーパーが2つあり、お参りの準備もしやすいです。
- 国道、駅からも近く、ご法事の際も集まりやすい場所です。
- ご法要は本堂内のご本尊様の前で行うことができます。
墓地に「俠客大場の久八」の墓がある
久八の略歴
久八は文化11年(1814年)10月2日、伊豆の国函南村間宮、百姓栄助の長男に産まれる。姓は森、名は久治郎、通称大場の久八と称す。
天保10年(1839年)の頃には上州系三大親分の一人として、その勢力圏は駿豆相甲武にわたり乾児の数3600余人、有名貸元59人を容する東海随一の侠客となっていた。
安政の大地震には大前田栄五郎と協力して義金数百金を募って窮民を救い、嘉永6年(1853年)江川太郎左衛門が品川沖のお台場建築工事に苦難するや配下の石工、人夫数千人を集め、難工事を完成せしめて台場の親分と仰がれるなど、遊俠社会に傑出した人物である。
明治25年12月3日没、享年79歳。