大場の久八
侠客大場の久八
森 久治郎
久八は文化11年10月2日(1814年)伊豆国田方郡函南村間宮、百姓栄助の長男として生まれた。姓は森、名は久治郎、通称を久八といって幕末遊侠社会の花形的存在であった盲親分田島要吉の上州系三大親分の1人として重きをなした。
その勢力圏は駿豆甲武相の5カ国から遠く上州の一角にも及んで3,600余人の乾児と上記の地域内に59人の有名貸元を容した東海随一の侠骨だった。世にいう上州系の三大親分とは、大前田栄五郎(上州)大場の久八(伊豆)丹波屋伝兵衛(伊勢)を指すのであるが、この3人は俗に五徳三本足といわれた呑み分けの兄弟分であって、関の東西に縄張りを持つ幾百人かの親分貸元で多かれ少なかれ三者の息のかからぬ者はないとまでいわれたほどである。
強きを挫き、弱きを助ける
彼らの日常生活は質素倹約を旨としてあくまで堅気の前には辞を低うして「強きを挫き、弱きを助ける」侠客精神に徹し、いやしくも良民に対して暴力をふるうが如き行為は絶対になかった。それはまた彼等の修行の厳しさにもみられるところであって禅坊主や雲水の修行態度とも一脈相通ずるものがあった。
台場の親分
久八が遊侠社会に最も傑出した人物として認められる動機となったのは嘉永6年(1853年)江川太郎左衛門が江戸湾の防備を痛感して品川沖にお台場(洋式砲台)を築造する大土木工事を起こした当時、台場の親分と仰がれて数千の人足をさながら手足の如く操り、さしもの難工事も予定通り半カ年の短日時をもって完遂させた蔭の役目を果たしたことにある。
骨が舎利になっても二足のわらじは穿かない、常に人の下に立つ
その義侠を伝え聞いた江川公は或る日江戸の私邸に久八を招き、自ら「仁侠」と記した一書を与えて労をねぎらったものであるが、その折、特に公より駿豆甲武相5カ国内における韮山代官支配地の御用を命ずるという申し渡しを受けたのである。つまり久八に十手補縄を預けるというのであった。願ってもない権力の座に着ける好機なのであるが、彼は堅く固辞して受けなかった。元来が久八は権力者や官憲との妥協を快く思わなかった人だったのでこの光栄ある申し渡しも一言にして辞退したのであるが、遊侠とは「骨が舎利になっても二足のわらじは穿かない、常に人の下に立つ。」これが真の渡世人の姿というものであった。
3つの危難
久八には生涯を通じて3つの危難があった。1つは相州直鶴の喜左衛門との喧嘩で単身もって衆敵に当たったが、刀折れ力尽きて遂に日金山下に墜落し重傷を負った事件。次に甲府代官の補方に追われて甲州の猿橋上から桂川へ身を投じて河底を潜行しつつ九死に一生を得た事件。更に甲州の山地に怒濤の如く押し寄せてきた東山道の官軍に捕縛され、石和の牢に投獄されて危うく斬罪に処されるところを韮山代官所の柏木総蔵(後の足柄県令)に救われるという危難中の大難を被った事件。
その他枚挙にいとまないほど多くの事件や喧嘩出入りに関係して人を斬り反対者を倒しているが、お台場の完成後には不思議と人生観が一変し、何よりも和を以て楽しむという大慈大悲のみ仏に帰依して如何なる場合にも刃物に手を掛けまいと誓った。それは彼の愛刀大慶直胤を三島大明神の宝前に、近江守祐直を相州大山雨降社に奉納したことをみても心境のほどがわかるのである。
帰農後も数々の功績を残す
また彼は明治を境に遊侠社会からさらりと足を洗って帰農した。ここにおいて初めて庶民の一人となった久八は郷党のためにと私財を投じて下田街道の改修を行うとか、村の学校建設に費用の一部を寄付するとか、あるいは当時勃発した伊豆人民党の争壌事件を調停して人心の安定に寄与するなど数々の功績を残し、明治25年12月3日79歳の天寿を全うして眠るが如く大往生を遂げたのである。葬儀に際しては生前の功を賞した芝増上寺の管長は「信礼院義誉智仁徳善居士」の諡号を、田方郡長岡田直臣は自ら霊前に弔辞を呈して功労を追賞したほどである。
久八の弟分と有名乾児の主なる人物
舎弟分
江戸屋虎五郎(館林)小金井小次郎(武州)福田屋栄二郎(前橋)竹居の安五郎(甲州)岐阜の弥太郎(美濃)保下多の久六(尾州)国領屋の亀吉(浜松)天野海蔵(甲州)平井の雲風亀吉(三州)
有名乾児
本郷の金平(下田)弁天の安太郎(下田)浜野屋藤三郎(伊東)山崎屋喜右衛門(熱海)青木屋玉五郎(松崎)玉屋左十郎(三島)北条の清作(韮山)菊地の和助(沼津)湯山の銀太郎(御殿場)吉原の金七(元市場)赤小路の定四郎(富士宮)平野屋三平(由比)網代の才次郎、塚本の重太郎(伊豆)そばやの亀吉(八王子)小田原の集月、平塚の釈迦留、藤沢の権蔵(以上相州)綱島の小太郎(横浜)埋地の仙太(横浜)吉田の近之助、石和の広吉、後名の亀吉、上野原の伊助、十日市場の平吉(以上甲州)浜川の勇次郎(上州)浜尻の平五郎(上州)
以上の人々はいずれも地方における一家の親分貸元であることを附記しておく。
昭和36年12月久八70年忌に際して記す 戸羽山 瀚